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2009年5月

2009年5月31日 (日)

分析家の独り言(褒める、育てる)

クライアント達は、親に褒められたことがないと言う。

個として認められず、親に呑み込まれ、自分というものを持たない。

すると、自我境界がなく、自分と他者の区別がつきにくくなる。

自我境界とは他者と自分を区別する境であり、これがしっかりしていないと自分の思っていることは、他人も同じように思っているはずと思い込む。

自分の感覚や考え、価値を相手に押し付けたくなる。

これが家庭においては、親から子になされることが多い。

それをしてしまう親にもしっかりした自我境界はない。

自我境界があれば、自分と例え我が子であっても相手との違いを認識していて、個として尊重し、自分を押し付けたりはしない。

子どもの側は、簡単に他者に侵入され、自分を乗っ取られてしまう、傷つきやすい。

こういう子はまたいじめられやすい。

暑いか寒いか、空腹か満腹か、好きか嫌いかの感覚さえ、真に自分のものとして感じ、認められているか怪しい。

「自分と他者の区別がつかない」と表現するクライアント、「自分の価値が自分でわからないため、他者から認められ褒められないと自分の存在が危うい」というクライアントもいる。

当然自我も脆弱である。

脆く弱いために、何かあると落ち込む、気分の浮き沈みが激しい。

不登校・ひきこもりの人達はほとんどこうである。

自我境界をつくり、しっかりした自我をつくるには、本来育つ過程で親が子どもに承認と賞賛を与えることである。

承認とは、あなたの言うことは正しいことで、正常なことですと言うこと=オールOKすること。

賞賛とは、できたことを正確に褒めること。

承認と賞賛によって人は自我境界をつくり、成長していく。

今からでも遅くない、子どもを承認・賞賛することである。

http://lacan-msl.com/contents.htmlラカン精神科学研究所のホームページ

2009年5月30日 (土)

分析家の独り言(非行を止める)

人は人と会話によってつながっていく。

しかし親は非行に荒れる息子が理解できない。

口を開けば「うるさいんじゃ」「放っとけや」「あっちいけ」「金」としか言わない息子。

この息子が自分のことを語りだし、母親である自分と会話ができるようになったとき非行は終わると思ったというクライアント。

しかし親は親で、子どもが迷惑をかけ、犯罪を起こし、警察や裁判所などに行って頭を下げなければならないことが起こる。

そこで「親が甘いから子どもが調子に乗ってこうなるんや」と言われる。

言うことは言ってきた、それでも子どもは変わらず荒れる。

これ以上厳しくしたら、もっと荒れる。

「そんなに言うなら、あんたうちの家に来て子どもに言ってみ」と言いたくなる。

親もまた、自分の苦しさしんどさを理解されず、どうしていいかわからない。

精神的に追い詰められて、子どもに「あんたが事件起こすから、私が頭下げんなんやんか。何考えてんの」「親の気持ちがわからへんの」と言ってしまう。

ますます親子の関係は悪くなる、子どもは荒れる、親は嘆く。

この悪循環が止まらない。

一番分かり合えればいい親子が、分かり合えない。

そんな中でオールOKを聞いたクライアント。

今までと全然違う対応法だった。

最初は迷いながら、本当にこんなので子どもがよくなるのか?と思ったこともあった。

しかし、せめて自分が産んだ子くらい幸せにしないといけないと頑張ったという。

自分が死んだ後、子どもがあの時母親はこうもしてくれた、ああもしてくれたと幸せを感じられ、温かい気持ちになれるような自分と子どもでいたい。

残念ながら、自分が思い出す母親との関係は、怒られ、なじられ、否定されたことしか出てこない。

そうなってはいけない、それでは自分も子もまた不幸。

親は死んでも子どもの心の中で生き続ける。

オールOKをしていった結果、息子は自分の想いや考えを母親に話すようになった。

同時に非行は止まっていた。

言葉が会話が人を癒していく。

それは自分の気持ちを受け取られ、理解されることで。

親が自分の私見を離れ、いかに子どもの寄り添えるか、子どもに側にも立てるか。

自分は正しいとだけ主張していたのでは難しい。

不登校・ひきこもりにも同じことが言える。

http://lacan-msl.com/contents.htmlラカン精神科学研究所のホームページ

http://mama.lacan-msl.com/ オールOK!子育て法のページ

2009年5月29日 (金)

分析家の独り言 (母の存在の大きさ)

子どもの不登校・ひきこもり・非行等の問題で当ラカン精神科学研究所に来られる。

その最初に来られるのは、親である場合が多い。

例えば非行で走り回っている子どもが、そんな自分をなんとかしたいと来ることはまずない。

親が来ているうちに、後から子どもが来ることはあるが。

それに比べてひきこもりの場合は、ホームページや各サイトを見たと、ひきこもり本人が来ることもある。

取り組み方は人それぞれで、子どもに対応(オールOK)する親が分析を受けるケース、子どもが受けるケース、親・子両方が受けるケース、あと各講座や相談室に通われて子どもへ理解や対応法を学ばれるなどである。


その中でも親が分析を受け、母親教室(今の名称は子育て相談室)に通い、非行の子どもに対応してもらったAさん。

セラピー日記やホームページの症例にも書いたが、多額のお金を要求し、家庭内暴力もあった。

「オールOKを黙って三年してください」と言って、見事三年過ぎたころから子どもは変わっていき、今は真面目に働き家庭を築き、最近家を買うまでになった息子。

この非行に走った息子と私は一度も会ったことが無い。

もちろん顔さえも知らない。

いつもどんな息子なんだろうと想像をめぐらすのが精々である。

直接問題の息子と話さなくても、顔も見なくても、そこまでの変化を起すことができる。

私は間接的に関わっただけである。

一重に母親であるAさんの努力である。

子どもへの対応法オールOKを話し教え、それをする母親を分析し、母親自身にも目を向けてもらいながら、よりオールOKをできるようにするが、実際に子どもに対応するのは他ならない母親である。

その途中では、悩み苦しみ、オールOKするのを止めたくもなる。

それを分析者が支え励ましはできるが、やり続けるかどうかはクライアントが決めること。

母親が変化し続けると、子どもも変わってくる。

母親という存在の大きさを思う。

人は皆、母親から生まれる。


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分析家の独り言 (子どもに残す心の財産)

あるクライアントが言う。

自分は正しい、真面目に一生懸命生きてきた。

ところが、息子が荒れた。なんで?

いろんなところへ足を運んだが、これというものに出会えず行き着いたのがオールOKだった。

オールOKするということは、ある意味子どもの無理をきくことである。

その要求が正しいとか正しくないとか言っていたのではオールOKはできない。

クライアントは、暴れて多額のお金を要求する息子を正しいとは言えない。

しかし、それを要求されたら応えるしかないと思い、お金を出した。

それまで、物事を判断する基準は正しいか正しくないかだった。

正しくないと思ったことには、とことん異議を唱えた。

そのクライアントがオールOKをするには、まずこの正誤の基準を外さなければならなかった。

そうしてオールOKし気が付けば、自分を殺して(自分の考えや価値を否定して)でも人(子ども)を生かし続けることが大事だと気が付いた。

オールOKは子どもをわがままにするなどというレベルの話しではなく、オールOKする親の自分との戦いである。

親自身が自分と親との関係、養育状況にまで溯り、自分を見つめなおすことになる。

そこには惨めな自分、汚い自分、悲しい自分、かわいそうな自分、怒りを抱えた自分など、見たくない自分が浮かび上がる。

オールOKは、それから逃げないで向き合える人のみが越えられる壁のように思う。

この先には、子どものとの良好な関係と、親子共々の成長がある。

親として子どもとの信頼・絆・親密さを築けることは、この上ない幸せであろう。

こうして育った子どもは、人と信頼・絆・親密さを築いていける。

親は子どもに、お金では得られない心の財産を伝えたことになる。

分析家の独り言 (甘えと依存:子どものやる気を育てる)

子どもとは依存と甘えの時代であり、これをいかにして脱し自立した大人になっていくかが人間の大きなテーマの一つであろう。

いつも言うが、精神の年齢と肉体の年齢は一致しないため、成人をはるかに超えた年齢であっても、心は赤ちゃんというのはいくらでもいる。

いわゆるアダルトチルドレン、いやアダルトベイビーである。

子どもに充分甘えさせ依存させてやる=オールOKすることで、子どもは満足し、自我をつくっていく。

そうするといかに子どもとはいえ、いつまでも「お母さんあれして、これして」とは言わなくなる。

心身の発達と共に、自分で出来ることは自分でやってみたい。

そしてうまくい出来たことが自分の自信や、自尊心になる。

うまくいかなかったなら、どうすればいいかを考え、努力や工夫をする。

この思考錯誤を繰り返しつつ、子どもは成長していく。

その最初が、2~3歳のころの第一反抗期とよばれるもの。

それまで着替えや身の回りのことは母がしてくれ、母の手を借りていたが、この頃になると「ぼく(わたし)自分でやる」と言い出し、おぼつかない小さな手で、服のボタンを留めたり外したりする。

それを親は見守り、出来たことを褒める。

それがまた子どもの好奇心とやる気を生み、新しいことに挑戦していく。

それを「ほらみてごらん、お母さんがやってあげるっていったのに、自分でするって言ってもできないでしょ」などと言って、子どものやる気をつぶしてしまってはいないだろうか。


年齢的には大人になっても、私も甘えたい、依存したい人だった。

振り返れば36歳、二児の母で分析を受け始めた頃もである。

私が自分で、甘えと依存を抜けたと思えたときがあった。

親は何を思ったか、突然「車を買ってやろう」と言い出した。

車に乗れる経済的余裕がないことを不憫に思う、親心のつもりだったのか。

「ガソリン代もお父さんに持ってもらってあげるから」と母が言った。

即座に私は断った、「今、車はいらない」と。

以前の私なら、ラッキーと思いそれならと親に車を買ってもらっただろう。

しかしこのとき、自分の力で買えるようになったとき車が必要なら自分の甲斐性で買おうと思った。

今親に買ってもらっても嬉しくとも何ともない、と。

かえって親に車を買ってもらうことが、自分には恥と感じた。

遅ればせながら、ああ私もやっと大人になったなあと思った。

子どもも同じで、与え続け自我が育てば、与えられることより自分で出来ることの喜びを知り、自分で何かを得るためにはどうすればいいかを考え、自ら動き出す。

親はそういう子どもに育てること。

そうすれば、安心して子離れ出来る。

それまでに、人間のこどもは長い長い甘えと依存の時期を送る。

この子ども時代を適切に対応していく親の賢さが必要である。

分析家の独り言 (オールOKの末に見えたもの:その2「人間と何か」)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て掲載しています)

分析を知ると、それまで何も知らなかった自分を知る。

人間として、親として、母として、父として、男として、女として。

本来知らなければいけなかったことがどれだけあるのか?

無知であった自分と向き合えるのか?


以前は、一般の人は自分より恵まれていて、幸せそうに見えた。

それでも仕方がない、問題は目の前の荒れる息子。

この息子を変えるためにやるしかないと思ったから、オールOKできたのだろう。

荒れる息子にオールOKを始めた頃は、自分が死ぬまでに息子がまともになってくれたらいいと思った。

思っていたより短い期間でそれができて、自分の歪み足りなさを知り、今度はそれと向き合わざるをえなくなった。

起こるべくして起こった子どもの問題であり、自分のなかに想像もしなかったことがあった。

それでも、何でこんな人生を生きなければいけなかったのかがわかって良かったと言うクライアント。

ここまできて自分をみたとき、不幸でもなんでもない。
 
これだけの期間で人(息子を含めて)を理解できるようになったのはすごいこと。

自分が今生まれた人みたいで、こんな感覚になったことがない。

慣れてないと同時に、以前の自分が思い出せない、「私って、前はこういうときどう思ったんやろう・・・?」と思うことがよくある。

迷路をでたら、あんなに苦しい生き方をしなくてよくなっていた。

あれが本当に人の生き方か? いや、親が自分に求め言い続けた生き方だった。

それを跳ね除けて生きてきたつもりが、結局親に捕まって、からめとられた人生を生きた。

今見ている景色が以前とは違う、なんと自由。

前と比べると幸せだが、人としてここで止まっていいのか。

本当の人間とは何か、を目指さないといけないのではないか。

必要に迫られてやったこと(=オールOK)とは言え、まさかこんなところに出て来るとは思わなかったと言う。

分析は、人間とは何か?生きるとは?男とは?女とは?と問いかけ、それに自分なりの答えを出していくこと。

この問いかけを自らする人が健康な人であり、この問いかけが本人の意思ではなく、突然外からやってくるのが病理(分裂病)である。

クライアントは、息子が多額のお金を要求し、暴言を吐き、暴れるというあの悲惨な状況のなか、誰も血を流すことなく終われたことが奇跡だったと言った。

一般には奇跡と思われることが、理論的に説明できるところがまた分析のすごさだと私は感じる。

分析家の独り言 (心を育てる)

クライアントAさんが、歯医者に行ったときのこと。

診察を待つ間に、そばにいた母親と、4歳くらいの女子がいた。

女の子は、待合室にある絵本を母親のところに持ってきて、「読んで」という。

その母親は、大人が聞いていてもわからないくらの早口で、絵本を読み上げた。

女の子は、次々絵本を持ってくるが、母親は同じように早口で読み上げ、そばで聞いていても何を言っているかわからない。

Aさんは「それ、日本語ちがうで」と思った。

母親は、週刊誌が読みたかったらしく、早口で絵本を読み上げては、週刊誌を読んだ。

このとき、Aさんは「あんた、そんなことしてたら私みたいになるで」

「この子が思春期になったとき、きっと暴れだすか、ひきこもるか・・・」と思ったという。

Aさんも、分析を知るまでは、子どもは食べさせて、着させて、寝させて、学校に行かせてたら育つと思っていた。

私は真面目に一生懸命仕事も、家事も、子育てもしたのに、何で子どもが荒れるのかと思った。

多くのクライアントが同じことを言う。

子どもに食べさせて、着させて、寝させて・・・は親が子どもにする最低限、基本的なこと。

この母親には、子どもの顔をみながら、子どもにもわかる速さと口調で、子どもの反応を見ながら、共にというのが無い。

子どもにせがまれるから、仕方なく読んだというだけ。

これでは、子どもの心、情緒が育たない。

Aさんも今になってそのことがわかるという。

粗雑に、いい加減に扱われた子は、自分も人も粗雑に扱い、大事にしない。

大切に、丁寧に扱われれば、自分も人も大切にする、当然のことである。

成長する過程で、どう接しられ、どう扱われ、何を経験したかで人は心の中に良いものと悪しきものを蓄積する。

ならば当然、良いものを子どもの心に積み上げていくことである。

しっかり反応され、聴きいれられ、適切な関心と世話をされ、大切に、愛され・・・それらを一言でいったのが、子どもへの『オールOK』である。

分析家の独り言 213 (母を超え、更に進む私の人生)

数年前になるだろうか。

娘が投げた鍵が、書院作りの床の間のすりガラスに当たり割れた。

確か寒い時期だったの、すぐにもガラスを入れないと、それでなくても隙間風の入る日本家屋であるため寒かった。

当時娘は社会人だった。

娘が投げた鍵が当たり割れたので、ガラス代は払ってくれるのかなと思っていた。

しかし、いっこうに払ってくれる様子がない。

こちらから請求しようかとも思ったが、娘が言い出さない限り、こちらからは何も言うまいと決めた。

そのことを、実家の母に何気なく話した。

母は、「何でガラスを割った本人に払わせないのか」と言った。

私は、「払う気があれば自分から言ってくる。言わないということは払う意思がないということだから、私が払っておけばいい。それだけのこと」と答えた。

そのとき母から出た言葉に私は驚いた。

「優しいお母さんやな。私の母もそんな母だったらよかったのに」と。

母の口から、母の母(私からいう祖母)は恐い人だったと聞いていた。

この母の言葉を聴いた瞬間、私は母を確かに超えたと思った。

と同時に、母もまた傷ついて育ったことが様々あったのだと。

子どもころはいろんな意味で、母親は大きな存在であった。

普通女児は自分の母のような女性に、母親になりたいと思い、母に同一化し、真似ていくのだが、残念ながら私は、母のような母にはなりたくないと思って育った。

その母を確かに超えたと思えたとき、これでマイナスの世代連鎖を一つ切れたと感じた。

母を超えるだけではまだまだ、真の母性を持った人間になること。

まだ私の無意識のなかに、母の亡霊が巣を作っている部分があるだろう。

そこに徹底的に光を当て、母の呪縛から解き放たれることが、私が私を生きることになる。

インテグレーター養成講座のテキストの一説に、「人は言語により親の信念や行動を引き継いでいく。それに対して何の疑問のなく行動する限りにおいて、それは催眠にかかったか暗示に基づいた行動になってしまう。すなわち暗示は、信念や行動に対する申し出を完全な自己決定が不在のまま受け入れることである。」とある。

この言葉が身にしみる。

私は私の意志と主体性で、私の人生を生き抜こう。

分析家の独り言 212 (虐待の連鎖を止める)

ここのところ、虐待による子どもの死亡事件が続く。

冷蔵庫に男児遺体「縛って箱に入れたら死んだ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090429-00000538-yom-sociという事件。

その少し前には、大阪西淀川小4女児遺棄事件http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090429/crm0904292249023-n1.htm

無力な子どもは自分のおかれている環境が劣悪であっても、自らの力で変えることも、逃げることさえ難しい。

泣き声がうるさいからと紐で縛られ、衣装ケースに入れられ死亡した男児。

子どもは泣くことでしか訴えようがなかったのだろう。

4歳であれば言葉が話せただろうが、言葉を発することと、それを正確に受け取って理解されることとは違う。

紐で縛られ、狭い衣装ケースに入れられたときの男児の気持ちは、どんなに心細かっただろうか。

大阪西淀川の事件では、ベランダに放置されたり叩かれることがあったという。

どちらのケースでも子どもは、もうこの親の元では自分は生きていけないと、自ら生きることをやめたのかもしれない。

クライアントの養育史を聞く中でも、家を閉め出され、外に放り出されたというのが多々ある。

親は一定の時間放りだ出し、またすぐに家に入れてやるのだからと軽い気持ちでいるかもしれないが、自分の力で生きていけない子どもにとっては、例えそれが短時間であっても、死の恐怖である。

親自身が子ども時代に、そのまた親から同じようjに虐待(叩かれる、家から閉め出される、縛られる、ご飯をたべさせてもらえない等々)を受け、それは辛いことのはずなのに、同じことを我が子に繰り返してしまう。

虐待、見捨て言葉や行為は子どもの心に大きな傷を残す。

それが癒されないまま親になった人は、その傷をまた次の世代である子どもに引き継がせてしまっている。

こうして不幸な連鎖は繰り返され、事件という形、子どもの死を持ってしか終結しないのか。

それではあまりにも人間は愚かな存在としかいいようがない。

自分を振り返り、自分を知っていくと、傷ついた悲しい自分が出てくるが、それをしっかり意識し自覚すれば、無意識にマイナスの言動を垂れ流すことを止められる。

この無意識を書き換え、負の連鎖を事件が起こる前にくい止めたいと願う。

分析家の独り言 211 (オールOKの末にみえたもの)

荒れる息子にオールOKをし対応したあるクライアントの話。

その息子が最近家を建て、その引越しの最中に母であるクライアントに電話をかけてきた。

息子は、「変なこと聞くけど、おまえ(=クライアントのこと)何か怒ってることない?」と言った。

クライアントは「ない」と答えたが、息子は「いや、あるわ」と言う。

クライアントはそう言われ、一生懸命考えた。

あるといえば、家の電話やパソコンを置いている棚を買って、物を整理し納めたいとここずっと思っていたこと。

サイズを測り、これならいいと思う棚を通販で見つけ、夫に話したが反応がない。

今までなら夫にやいやい言って、なんらかの行動を起こしていたが、反応しない、動かない夫がどう動くのかみようと思った。

しかし、いっこうに夫は動く気配がなく、そのことにイライラはしていた。

このことを息子に話すと、「思うようにしたらええ」「そのことなら、知り合いの大工さんにもう話してあるし、おまえが気に入るようなのを作ってもらったらいいわ」と息子は言った。

クライアントは「そうか」と言って電話を切って、なんでまた息子は一番忙しいはずの引越しの最中に、私が怒っていることがないかなどと聞いてきたのだろうと思った。

いつもなら家の仕事を夫と一緒にしているので、1日に2~3度は家に寄り、顔をあわせていた息子。

ここしばらくは、息子は自分の家にかかりきりで、顔をみることもなかった。

その息子がいきなり、「変なこと聞くけど、おまえ何か怒ってることない?」と聞いてきた。

しかも棚を巡って夫とは話をしたが、息子にその事に付いて詳しく話したことはない。

クライアントは、自分のイライラや腹立ちを息子はわかっていたのか、見透かされていると思った。

そのとき、まるで息子がまだ自分のお腹の中にいるような感覚になった。

人の意識とはすごいもの、親子とはこうも以心伝心するものなのかと思ったと言う。

息子が非行で荒れ狂い、仕方なしに始めたオールOK。

次々と問題を起こす息子のことがわかない、理解できない。

その息子を理解したいと思うようになって、以前は話をしても、言って通じなった息子が、言わなくても母親のことがわかる息子になった。

子どもが親に反抗したり、荒れたりするのは、自分のことを理解してくれないことへの怒りの表現。

その子どもの裏には、自分を理解してほしい、受け入れてほしいがある。

それをわかろうとし、受け取り続けたとき、今度は子どもが親を受け取り始めるのかと思った。

親と子は、互いを写しあう鏡のよう。

親が「あんた、何考えてんの!」と子どもを非難すれば、子どもからは「ボケ、死ね」と返ってくる。

反対に親が「あんたは何が気に入らんの?何がしたいの?」と語りかければ、子どもから「おまえ何か怒ってることない?」と思いやりの言葉が返ってきた。

息子を見ていて、子どもが独立し家を出て行っても、人は永遠に自分を理解されたいと願うものなのだと思う。

その想いに応え、利害を持ち込まず、子どもをしっかり受け止められるのは母であり、その役割の大きさに驚く。

それがしっかりできたときから、子どもは母親に意識を向けるのか(気になるとは=そこに意識がいくこと)。

母親に受け取り続けられると子どもは成長していき、母親を理解しようとする気持ちが芽生えてくるのか。

オールOKすると、母親は与え続けるだけ、子どもに取られるばかりで損をすると思うかもしれないが、与えきったときにはこういう事になるのかと思った。

クライアントとその母との間にはできなかった親子の関係が、クライアントとその息子との間ではできた。

人は自分が満たされないと、人の欠点ばかりをみる。

自分が満たされると、人への思いやりがでてくる。

これを分析者は、無条件に与えられた人間は、今度は人に与えられる人間になると言ってきた。

クライアントは、「息子が私を思いやるのは、私が亡くなってからだと思っていたが、生きている間に私に意識を飛ばし、私を思いやるようになるとは思っていなかった」

「息子にオールOKするうちに、訳のわからない宇宙人のような、一時は死んでほしいとまで思った息子を好きになっていった。これほど人好きになったことはなかった」と言う。

子育ての中で、親が子どもに惚れ込むこと。

私はこの語りに、ただただ感動した。

分析家の独り言 210 (SMAP草なぎ剛 公然わいせつ容疑で逮捕)

アイドルグループ「SMAP」のメンバー、草なぎ剛容疑者(34)が23日、東京都港区赤坂の公園で全裸になったとして、公然わいせつの疑いで警視庁赤坂署に現行犯逮捕された。草なぎ容疑者は泥酔状態で、全裸で奇声を発していたため通報された。

YAHOO!ニュース 草なぎ容疑者 全裸で奇声!異例の家宅捜索も  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090424-00000045-spn-ent より抜粋

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世間一般には、真面目な好青年というイメージがあるだろう彼が、夜中酒に酔ったうえとはいえ、公園で全裸となり奇声を上げていたとはどういうことか。

人間いつも真面目だけではないはず。

不真面目な自分、エッチな自分、サボりたかったり、羽目をはずして騒ぎたい自分、いろいろな自分がいる。

それをまわりから「いい人」「真面目な人」と見られ、そういうレッテルを貼られると、それに合わせていかなければならなくなる。

あまりにいい人をやりすぎると、本当の自分がわからなくなる。

しかしどんなに不真面目な自分を抑圧しても、なくなったわけではなく、お酒を飲み酩酊状態となれば箍(たが)が外れ出て来る。

何か事件がおきたとき、いつもは真面目ないい人がまさかこんな事件をおこすとは思っていなかったというのはよくあること。

それが今回の事件のような形(全裸で公園で騒ぐ)で現象化してしまったのだろう。

真面目な人ほど危ない。(ついでに言うが、良い子も危ない)

それはいい人を演じ、不真面目な部分を抑圧しているからである。

普段から、精神の構造として適度に攻撃性や不満・鬱憤を出す水路を持っておくことが大事。

それが草なぎ容疑者にとっては、お酒を飲むことだったのかもしれないが、それがまた仇になったということか。

普段からお酒が好きで、よく飲む方だったと聞いた。

お酒は母のおっぱいの置き換えであり、裸でいるのは=赤ちゃん ⇒ 彼は1.5歳未満の赤ちゃんということになる。

フロイトのいう口唇期欠損者である。

酩酊状態になるまで飲んだとは、酩酊状態とは自分も他者もなく融合した状態になりたいということであり、この状態は胎児が母のお腹の中にいるのと同じ。

すると、彼は赤ちゃんどころか胎児であるといえる。

母のお腹の中にいた胎児の時代から何らかの欠損があったと考えられる。

例えば、母親が彼を妊娠中に何か大きな不安・心配・悩みを抱えていたとしたら、母体は胎児を思いやることが出来ず、それだけで胎児は傷付く。

胎教が大事というのは、こういうことがあるからである。

どういう気持ちで母体が十月十日(とつきとおか)をすごしたか。

母体がお腹の子どもをいたわり、気づかい、安定した気持ちで過ごすことが胎児の幸せにつながる。

これらは無意識のレベルの話であるから、一般の人には理解しがたいかもしれない。

しかし、臨床場面ではこういうことに出会う。

自分の無意識を知ってしっかり意識化しておかないと、またバリエーションをかえて同じようなことを繰り返す可能性は大きい。

覚せい剤で逮捕された人が、こりたずなのに何度も繰り返すことをみてもわかるだろう。

無意識は止めようがないし、コントロールの仕様がないのである。

分析家の独り言 209 (4月分析理論講座より)

昨日京都駅周辺で、分析理論講座を開いた。

分析の理論に興味がある方。

自身が分析を受けて、理論も学びたいという方。

子どもが分析を受け、その親御さんが理論を知りたいと来られる方など、様々ある。

テキストに沿いながら解説していくが、、症例や経験談を織り交ぜていくうち脱線することもしばしば。

受講者の方々も質問したり、自分のことを話しながら進めていく。

個人の分析とはまた違い、例えばオールOKを理論的に理解してもらえるいい機会でもある。

いろんな理論を話す中で、発達論から、心の構造的にといろんな角度からオールOKの必要性を説明できる。

人間の精神はどのような過程で、どの様に発達するのかを初め、無意識やライフサイクル、家族、心と体の関係、性格・人格に関すること等々。

伝えたいこと、知っておいてほしいことがたくさんある。

知っていれば、もう少し工夫できたり、適切に対応できることもあるのではないか。

自分を振り返り、自分や他者を理解するのに役立つこともたくさんある。

こんなことは今まで生きてくるうちに誰からも聞かなかった、教えてもらわなかった。

もっと早くに知っておきたかったというのが、私や多くのクライアントの感じることである。

折にふれ、ここブログなどでも理論的な解説を今後掲載していく予定である。

ただ文章として書いたものと、講座等でしゃべるものは相手が不特定多数であるか顔の見える人か、一方的に書くのか質疑応答してより深い理解に至れるかなどの違いがある。

理論など必要ないという人に無やり聞かせようなどとは思わないが、何かを求め探している人がいるなら、分析やその理論に出会ってほしいと思う。

講座や教室をしてそれに興味がある、おもしろいという声が聞かれると、なおやりがいを感じる。

分析家の独り言 208 (子どもの非行に悩んだクライアントからのメッセージ)

以下の文章は、息子の非行にオールOKで対応したクライアントAさんに書いてもらったものです。

もっと詳しく聞きたい事や質問等があれば、Aさんが答えますということなので、ラカン精神科学研究所 宣照宛てにメールを送信ください。

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

なお、件名に 「Aさんへの質問」 と入れてください。

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私の子ども(男子)が、非行という状態から抜け出せて5~6年になるでしょうか。

現在26歳、二人の子どもを持ち家庭を築き、仕事に励む日々を送っています。

14歳から突然非行に走りはじめて6~7年間、私はどのように日々を送ってきたのかあまり記憶が定かではありません。

今思い出すと、よく自分が耐えて生きてこられたなぁと思います。

子どもが中学生の頃は、まだどこかで反抗期思春期という思いがあり、知人からは「いつまでもつづかへんて、いづれ高校へ行くことを考えはじめるし」等という言葉に、「そうかもしれん」と思って自分を慰めていたりしていました。

今思うと親である私が変わらずに時間だけ過ぎても、子どもは変化する筈がない事をよく知っています。

次から次に問題をおこし「俺が高校行ったら、先生困りよる」と自分で言う始末。

言葉通り高校へは行かず、年と共に非行はエスカレートし、私は追い詰められました。

子どもが18歳になる頃、ラカン精神科学研究所の宣照氏と出会い、オールOKの子育て法を知りました。

しかし私は、殆ど聞く耳をもっていませんでした。

今まで警察や家庭裁判所、保護士、学校の先生などさまざまな人から色々話をきき、私なりに出来ること気付く事は子どもの非行を止めたい一心でやってきましたが、どれも何の成果も無かったからです。

でもこのままでは、何れ親子共倒れの日は目の前に迫っている藁をも掴む思いで、オールOKを始めたのです。

しかし私が、思い描いていたオールOKとは、かなり違っていました。

それは子どもを甘やかすのではなく、自分が親である事の意味の確認の連続でした。

今までに自分が良いと思い常識と思っていたことが、子どもにとってはどうだったのか。

私は、私が思い込んだように対応してきただけだった事に気付きました。

子どもを育てるという事は、親が自分自身を知らなければ、良い子どもとの関係を築く事が出来ないと考えるようになりました。

3~4年がかりで私自身を宣照氏に受け止めてもらいながら、子どもとの向き合い方を教えてもらい、子どもの事が少しずつ理解できるようになりました。

「うるさい」「ぼけ!」「死ね」「金」という言葉しか言葉を知らないような子どもとの数年を越え、私は自分こそが子どもに育てられたように思っています。

今、子どもの非行で悩んでおられる方の苦しみや悲しみ絶望を、私も少しは受け止められる様になったと思っています。

私の経験から子どもの非行の原因を外に(学校、先生、友達)求めている間は、解決は程遠いと思います。

自分が産み育てた子どもが何を考えているのかわからない・・・・・。

でも、その様に育てたのは私なのだと思った時から、何故こんな親子になってしまったのか答が欲しいと願うようになりました。

その答こそがオールOKの中にありました。

私は今、人を自分をより理解する為に宣照氏のもとで学んでいます。

いつかだれかの苦しみを共有できる人になる為に。

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治療者側である私が、Aさんと関わりながら教えられることがたくさんありました。

Aさんが過去の自分と同じように子どもの非行で悩んでおられる方々のために、自分の経験したことが何か役に立てばと、今回私のブログに文章を寄せてくれました。

どうぞ、質問等お寄せください。

息子さんとまたAさん自身との壮絶な戦いの末に、幸福を感じられる今にたどり着かれたAさんをそばで見られたことが、私の財産の一つです。

                      ラカン精神科学研究所  宣照 真理

分析家の独り言 207 (4月京都子育て相談室より)

昨日の子育て相談室は、子どもの年齢が20歳代から小学生低学年までの開きはあるものの、子育ての基本はかわらないため、他の人の話を聞いて気づく事があったと言うクライアントの声があった。

子どもが表す問題も、非行や不登校・ひきこもりなどいわば正反対であるが、根本は同じである。

また、宣照真理のセラピー日記 分析家の独り言 205 (子どもの気持ちをくむ)http://lacan-msl.com/diary2/2009/03/_205.htmを読んで、これでいこうと、子どもに対応したという。

子どもにえらそうに言われたり、お金を要求されたり・・・で対応する母親も内心は心穏やかではいられないことが特に初期は多い。

それで口から飛び出しそうになる子どもを否定したり、子どもへの文句の言葉をこらえて、まさに修行のよう日々。

言葉を呑み込んでも、今度は顔が態度が言葉と同じように「嫌だ」「ダメだ」と表現してしまう。

それをまた子どもは、敏感に読み取る。

それでも実践していくうち、子どもへの怒りや不満の気持ちが、しまったまたやってしまったと反省の気持ちに変わっていく。

オールOKを実践していくお母さん方に、この変化が見られる。

と同時に、子どもの言動が少しずつ柔らかくなって、言葉のなかに「ごめんな」などが入ってくる。

ここまでやってくれるお母さんが少ないのも現実。

我が師は言う、「オールOKの話を聞けるのは百人に一人」と。

世間一般にオールOKを言っても、その奥の理論的裏付けまでは詳しく語りきれないために、オールOKの言葉だけが一人歩きし、否定されたり非難される。

だから「だまされたと思って、三年黙ってオールOKしてください」と言うしかない。

「オールOKしない人からは、そんなわがままにしてどうするなどと散々文句を言われるが、三年やってなんて事を指導したんだ、子どもがとんでもないことになったなどのクレームをつけた人いません」と言う。

それは、私自身も自分の娘たちで実証したし、分析家仲間の症例からも、言えることだからだ。

最近も『オールOK!子育て法』のサイトを見たと言われ、連絡をいただく方々がいる。

クライアントたちがHPやブログを読んで、参考にしてくれていることもあるようで、これからも、いろんなかたちで情報を発信していく所存である。

近じか、『非行』についてのサイトをつくる予定である。

分析家の独言 206 (今を生きる:その3)

フロイトが「否定」と題する論文のなかで、

「・・・分析を受けている患者が、『そんなことを考えたことはありません』とか、『そういうことは考えたことがありません』というような言い回しで分析に反応を示すときほど、無意識的なものの見事な発見を証明するものはない」といっている。

「考えた事もない」とは、考える対象としてクライアントはそれ知っていたのではないか、あえてそのことを不問にしていたということ、考えないようにしていたということである。

その事を考えないということで、否定してきた。

クライアントは考えようとしない。

それは現実直視、直面を避けているからである。

考えなければ未来がどうなるか予想しなくていいし、不安にならなくていい。

未来の展望の不安を防衛するためには考えないことなのだ。

考えなければ過去の悔やみも発生しない。

あのときああすればよかった、こうすればよかったという過去の悔やみからも、未来の不安のどちらからも逃れ、安全なところにいるには考えない事。

この防衛が唯一の事となる。

考えない事でえられたのは、安全と安心。

ところがうしなうものがある、それが今。

考える、思考するとは今する事。

考えない人たちには今という時間がない。

だから生きている実感がなくなる。

あるのは過去と未来。

時勢を区切る今がなければ、過去も未来も同じ。

未来と過去の区別がなければ未来も過去になる。

過去にあるのは、絶対に書き換えられないという事実。

それを未来に持ってくれば、未来も書き換えられない、すなわち、未来はもうすでに決まっているということになる。

すると何かをやる意味がない、判断する意味もない。

「未来は決まっていない、自分で好きなように描く」、といえる人は、過去・今・未来の三つの時勢の区切りがあり、時間機能が正常に働いているからるからそう言える。

今を抜いてしまえば過去も未来も一つ。

過去はすでに決まっている事、ということは未来も同じ性質を帯びる。

決まっている未来に対して何か意欲が出るだろうか。

未来を書き直しできないとなれば、その人にとって生きる意味はない、つまらないものとなる。

過去と未来が折り重なっている、だから「考えたこともない」=考えないようにしている。

その事については考えたこともないと、しっかり封印し、しまわれてある。

だから分析は無意識の再認である。再び見いだすこと、認めること。

それと知っていなければ隠しようがない。

知っているから、それについて考えてこなかったのである。 

分析において、その封印された無意識に光を当て、意識化する。

すると当然、今という時間ができ、未来は決まったものではなく、希望や理想を持って取り組める意味のあるものとなる。

こうして人は今を生き事が出来る、生き返る事が出来る。

分析家の独り事 205 (安心と安全そして信頼)

クライアントは皆、自分をありのまま受け入れ、理解してほしいと望んいる。

ところがある人は学歴が大事と言われ、勉強させられ、成績がよければ承認されたが、そうでなければ自己の存在を認められなかった。

親が叶えられなかった理想や夢を子どもに託し、子どもは自分の意思とは関係なく親の意思を継がされる。

またある人は、親の言う通りにすることを求められ、ただ反発するしかなかった。

多かれ少なかれ、親は自分の意に沿うように子どもを動かしたいと思う。

そうならないとただ親であるというだけで、威嚇し怒り子どもに言うことをきかせる。

子どもは自分を失っていく。

自分は何が好きで、何を欲し、どういう人間なのかわからなくなってしまう。

そうして育った子が親になったとき、また自分がされたと同じ事(=自己の存在を認められず、親の言うことをきかされる)を子どもにしてしまう。

それが下の代になるほどマイナスが重なり、いろんな形で問題がでてくる。

それが、不登校やひきこもり、非行、神経症等の心の病などである。

自分が嫌いという。

自分が自分を受け入れられなくなる。

どんな自分も自分として受け入れるには、生まれてから親に自分がどれだけありのままの自分を受け入れられたかが大事。

何かが出来るから・・・と条件をつけるのではなく。

安心と安全のなかで人は健康な精神を育てていける。

病んだ心も安心と安全な人との関わり、癒され快復していく。

それがオールOK!で子どもを育てることを推奨する所以でもある。

分析家はあるときにはそのクライアントの母親父親となり、支持し心を育てていく。

分析を通してクライアントとの信頼を築くことを重視する。

分析家の独り事 204 (今を生きる:その2)

自分のことを振り返って、今まで生きたなかでいくつも悔いることがあった。

例えば、中学・高校の部活動でバスケットボールをしてきた。

中学で全国大会に行き、高校ではインターハイにも出た。

大学は体育大学へ行って、将来は中学か高校で体育の教師をしながら、またバスケを教えたいと思っていた。

ところが、高校の練習でしぼられ、この上また大学で4年間体がもつだろうかと思い始め、ギリギリになって進路を変更した。

結局、文系の大学でまた4年間バスケをすることになった。

しかしここでは、コーチに「おまえの好きなようにやれ」と言われ、バスケを楽しめたときではあった。

大学1年のときは関西リーグ4部だったが、3年・4年のときには、2部で1位となり、1部リーグで試合をした。

1部リーグにいた薫英短大のバスケ部がよくうちの大学に合宿に来て、そこの監督はよく知っていた。

大学を卒業して大阪でOLをし、実家のある滋賀県のクラブチームに入ってまたバスケを楽しんでいた。

OL1年目の夏頃だっただろうか、その頃まだバブルがはじける前の好景気で、三洋電機貿易(株)にバスケットボールの実業団チームができることになった。

そこの監督に薫英短大の監督がなるということで、私はそこに誘われた。

年齢も私が一番上ということで、キャプテンとしてチームをまとめる役をしてほしいと言われた。

普通、男子は大学を出てからでも実業団に入るが、女子は高校卒業して実業団でプレーし、24歳くらいで引退すると聞いていた。

私は選手としてピークを過ぎる23歳からはじめる事になる。

また、自分はチームをまとめるキャプテンとしての器があるだろうかとも思った。

親からは(親たちの都合で)、クリスマス・ケーキと同じで、25を過ぎたらもう遅い、売れない、早く結婚してくれと常に言われていた。

一度は三洋電機貿易に行くと返事をしたものの、自分の体力、能力、気力への自信のなさや、親のプレッシャーに負け、結局は辞退してしまった。

それから25歳でお見合い結婚をした後も、あの時バスケの道を選択していたなら、また違った人生があったはず。

なぜあのときやめてしまったのかと後悔した。

私も『たられば人生』を生きていた。

過去を悔いるということは、今に納得していない、楽しめてない、好きな事をできていない、幸せを感じられていないからだと思った。

今の自分が幸せであれば過去がどうであれ、今を楽しみ活き活きといられるはず。

現実が辛くなると、あのときバスケをしていたら・・・が出てきて、ああなっていたかも、こうなっていたかもと想像する。

しかしそれは所詮想像の世界であり現実ではなく、虚しいだけで終わる。

過去に囚われ、過去に生きていると、現実への適応や問題解決に取り組めない。

あの頃の脆弱な自我のまま実業団でバスケをしても、自分が納得行くような生き方が出来たかはわからない。

遠回りをしたかもしれないが、今はこの道が自分にとって最良の道だったと思う。

今私は好きな事をして、生きる意味・目標があり、遅ればせながら自立心を持てたことが自信や有力感となり、いつの間にかあのときバスケをしていたいら・・・とは思わなくなっている。

今の自分としてバスケを楽しみ、50歳を越えた今でも、まだ上手くなりたいと思えていることが「やるなぁ、私」と思う。

この前の日曜日、自分の娘より若い高校生と練習試合をした。

体力の衰えが悲しいが(苦笑)

分析家の独り 203 (今を生きる)

子どもの非行や、ひきこもりなど、様々な問題を乗り越えたクライアントたちは言う。

その問題の最中では、もうどうしようもないと絶望することもあったが、自分を見つめながら長く暗いトンネルを抜けると、どんなに大変なことも、自分に必要なことだった。

人生に失敗はない、と。

分析によって過去に整理をつけ、今を肯定できるようになる。

様々な過去のマイナス面も今の自分に至るために必要だったことになる。

クライアントに多いのは、「たられば」で過去を生きている。

あの時、「もしこうだったら」「ああだったら」「そうしてたら」「ああしてたら」・・・「自分はこうなってなかったのに」「もっと幸せだったかもしれない」と、今に立てずに過去を悔いながら生きている。

これを「たられば人生」という。

今が上手くいかなくなると、すぐに過去に逃げてしまう。

もしあの時ちがう道を選択していたら、こうもなっていた、ああもなっていたかもしれないと、想像や空想、イメージの世界に逃げ込んで遊ぶ。

しかし、それは所詮イメージであって現実ではない。

過去は過ぎ去った時であり、もう変えようがない事実である。

それに囚われている限り現実への対応・解決能力はほぼない。

だから、現実は変えようがなく、相変わらず過去を見続けている(=過去を生きる)

分析は常に「今ここに」が大事だと言う。

そして今ここにたって、今を味うこと、楽しむこと。

そういう意味では、分析とは過去に生きている死者たちを、今に生き返らせるとも言えるのではないか。

分析家の独り言 202 (非行の息子にオールOKして)

ラカン精神科学研究所のホームぺージにも書いた、非行の息子にオールOKで対応したクライアントが言う。

非行がエスカレートしていく中で、大きなお金を家から持ち出して行った息子。

月に100万円を超えるときもあったという。

一度に80万円を要求したときも、分析者である私に、「オールOKしてください」と言われた。

このときクライアントは、この人(分析者)はわかって言っているのか。

8千円じゃないんよ、80万円よ。それでもOKするのかと思ったという。

しかし今から思うと、クライアントは、分析者が常にぶれなかったことが良かったと言う。

あの時もし分析者が、「80万はいくらなんでも高額だから、それはOKしないでください」と言ったら、逆にまた大丈夫かと疑問を持っただろうと。

オールOKに例外はないと、私は次々出される高額な要求にも応えてくださいと言い続けた。

親がボロボロになってでも、お金を出し続けることで、子どもが自分を見つめ、考え出したのだろう。

おそらく子どもは、40万円を要求しても、80万円を要求してもこの親はなんとかして出してくる。

しかし、このまま自分が要求し続ければ、いつか親もつぶれ、自分もまた立ち行かなくなることもわかったのだろう。

命をかけて出し続けたことが、息子を変えた。

最初は他に方法もなく、本当ならやりたくないが、やるしかなくてオールOKをしていった。

正直はじめは、お金ばかりか日常の些細な要求に応えながらも、今度この息子は何を言い出すのだろうとビクビクしていた。

しかし、オールOKで対応し、お金も言われるままに出すうち、息子から「おかん、買い物行くんやろ。○○買って来て。どうせスーパーにも寄るんなら、ついででええわ。急がんでもええし」

という言葉が聞かれるようになった。

それまでは、言ったらすぐ買って来いだったのがである。

そういう言葉が聞かれるようになってから、母であるクライアントは息子を愛しいと思うようになっていったという。

これほど高額な要求を出されるのは特殊なケースかもしれないが、それでもオールOKすることで子どもは変わっていった。

息子さんは、今は家庭を持ち、社会のなかで立派に真面目に働いている。

当時高額なお金の要求と共に家庭内暴力もあり、子どもが社会適応し、もう何の問題もないように思われるようになっても、クライアントには、辛く恐怖に彩られた過去を振り返ることがなかなかできなかった。

今ようやく、大変だったときのことを思い返せる余裕ができたという。

よくクライアントはあの状況のなかで、オールOKし続けたと思う。

頭が下がる思いである。

並々ならぬ苦労の末に、今は穏やかな日々と幸せを手にした。


http://lacan-msl.com/contents.htmlラカン精神科学研究所のホームページ

分析家の独り言 201 (娘と共に)

最近下の娘が私と一緒にケーキを作りたいという。

昨日、日曜日の午後娘と二入、「ああでもない、こうでもない」「ほら、見て」等といいながら作った。

娘は、母親である私と一緒に作りたいという。

ふと、思い出した。

そう言えば、2~3年前だろうか、娘に「私は小さい頃もっと、お母さんに遊んでもらいたかったのに、すぐお昼寝させた」

「ままごととかしたかったのに、お昼寝させられて目が覚めたらいつもお母さんはいなかった」

「あの時もっと遊んでくれたらよかったのに」と言われたことがあった。

そう確かに昔、小さい娘ををお昼寝させて、その間に家事や家業の仕事をしていた。

子どもが起きていたのでは仕事がはかどらず、寝てくれている間に済ませていた。

今一緒にケーキを作りたいというのは、その取り返しなのかと思った。

二十歳を過ぎた今からままごとをするわけにもいかず、それをケーキ作りに置き換えたのだろう。

ただ作ればいいというのではなく、一緒に作って楽しみたい、それを一緒に食べるのがまた楽しみと娘は言う。

これは心して、しっかり応えていかなければいけないと思った。

「しっかり応えていかなければ」というところに、私の欠損が自分でわかる。

そうしなければ、「ただやればいいんでしょう」、どうかすれば、「忙しいのにめんどくさいな」がでてきそうだからだ。

私も母と一緒に遊んでもらったことも、何かを一緒に作って楽しかったという経験もない。

それのことに母に文句を言ったりしたこともない、あきらめていたのだろう。

そんなことをできる母ではないと。

しかし、娘は母である私を求めている、それはすごく健康的で普通のこと。

私も娘と一緒に楽しみながら、ケーキを作って食べよう。

これが共にということ。

共有、共生、共感が大事と言葉だけでなく、体や気持ちで再確認しよう。

私の子ども時代にあったのは、共生ではなく強制だったなと一人苦笑する。

分析家の独り言 200 (子どもの気持ちをくむ)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て、掲載しています)

あるクライアントの子どもが、朝「保育園に行きたくない」という。

休むのなら園に電話しなければと、電話をかけよいとすると、「やっぱり行こうかな」という。

かけかけた電話の受話器を置く。

子どもが「お母さん、どうしたらいいと思う」と聞いてくる。

「○○ちゃんが行きたくないなら休んでいいし、行きたいなら行けばいいやん」と母であるクライアントは答える。

それでも子どもは行く・行かないを繰り返す。

これまではクライアントはこの子どもの言葉に疲れてしまっていた。

「行くの、行かないのどっちなの」「行かないなら行かないでもいいから、はっきりして」と心の中で 思っていた。

それが、子どもの迷う様子を見ていて、「○○ちゃんは、行きたいけど、行きたくないんやね」「行きたくないけど、行きたいと思ってるんやね」と言った。

その時、子どもがニコッとしたという。

そして、これでいいんだと思った。

今まで、クライアントは子どもに何か聞かれたらしっかり答えを言わなければいけないと思い込んでいた。

ところが子どもは必ずしも答えを求めているのではなく、迷っている、悩んでいる気持ちをくんで欲しいんだということがわかったと言った。

そして、「それを私は(母に)されたことがない」とも言った。

悩みながら、迷いながらも子どもにオールOKし、対応していくと、こうして子どもに教えられとこがある。

自分に経験のないことは基本的には理解できないし、やりようもないのだが、それがあるとき「これか」ということに出会い、気付くことがある。

これを宗教の言葉で言えば、『悟り』というのだろう。

クライアントはこれまでの子どもへの対応のまずさに自ら気付き、「これでは子どもは満たされませんね、だめですね」と言った。

しかし母親がこうして気付けば、これから子どもへの対応が変わってきて、子どもの表情や言動も変ってくるだろう。

分析家として、うれしい気分になれるひと時だった。

分析家の独り言 199 (オールOKと分析)

不登校・ひきこもり、非行の子どもに悩む親たちの会が各地にある。

そこで聞かれることで、気になることがある。

全てがそうだというわけではないだろうが、と前置きしておくが、
 
子どもが20歳になったら、社会的にも成人だから、子ども自身の責任。

親はいつまでも子どもに振り回されず、親は親の人生を生き、楽しめばいい、というもの。

オールOK子育て法とは正反対である。

いつも言うが、人間の精神の年齢と肉体の年齢は異なる、一致しない。

子どもがいくつであれ、親の対応次第で子どもは変わり、自分らしく活き活きと生きていけるようになる。

私のところに来て、オールOKの話を聞き、それに取り組むクライアントとやめる人がいる。

オールOKや分析に取り組む人に共通するのは、本来ならオールOKなどしたくはないが、それで子どもが活き活きと生きていけるのなら、自分のことはさておき、(中には自分の命に代えてでも)やる、という意識がある。

オールOKをするお母さんから質問されることがある、「母である自分の人生はないのか」と。

母である私個人の人生を最優先するなら、子どもへのオールOKはできないだろう。

ある意味(したくないことをするのだから)自分を殺して、自分の意思を曲げてすることになる。

この自分を殺すことに抵抗が生じるだろう。

それは、これまで母自身が育ってくる過程で、散々自分の主体性を抹殺され、親の意思にあわせて生きてきたために、また自分が親となった今、子どものためとはいえ自分を殺さなければならないのかと思うと嫌気がさす。

「なんで私が子どもに合わせなければいけないのよ。私はこの子を生んだのよ」と言いたくもなる。

しかし、子どもを生み母となるということは、無上の愛情を子どもに注ぎ続けること。

例えこの世の人全てが、あなた(我が子)をダメだといっても、母である私はどこまでも受け入れ味方であると、子どもに伝えること。

そういう存在がこの世に一人いてくれたら、人は生きていける。

そういう存在でいられる人は母意外にないだろう。

オールOKすることは、それを子どもに伝えることにもなる。

そして母親として、子どもと信頼感や絆をつくり良好な関係を結べたとき、この上なく幸せな気持ちになれる。

オールOKや分析が目指すのは、上辺の解決(単に学校に行かなかった子が学校に行くようななったとか、非行がおさまったなど)ではなく、根本的に個人や親子関係をみなおし修復・改善する。

私が10年ほど通った非行の子どもに悩む親御さんたちの会で、根本的解決をし、真の幸福感にまで至ったケースは、オールOKをした一人しか知らない。

その会の中でも私はオールOKの話をしたが、実際に実践されたのは一人だったということだ。

わが師は言う、オールOKの話を聞けるのは百人に一人と。

百人に一人でもオールOKをする人に出会えるなら、私は生きている限り語り続ける。

分析に取り組み、幸せに生きていかれる姿を一人でも多く見たい。

ただし、オールOKするしない、分析を受ける受けないも個人の意思、自由である。

分析家の独り言 198 (闇サイト殺人事件から)

電車の中でのこと。

20歳代の青年二人が大きな声で会話していた。

青年A : 「健康保険証つくったんや」

青年B : 「金いるやろ」

青年A : 「そんなもん払うかいや。金借りるためや。」

青年B : 「取りに来よるやろ」

青年A : 「たまに1万円ほど払って、あとはないって言うたらええねん。」

どうやらこの二人は、前後の会話からパチンコかスロットに、はまっている様子。

一見普通の、どこにでもいそうな若者だが、会話の内容は「えっ、なにそれ」と思うものだった。

しかも、まわりを気にする風でもなく、堂々と言ってのける二人。

最近の事件で気になるのは、30歳代、40歳代の犯人、容疑者の無職という報道。

30歳、40歳になっても無職でどうやって生活しているのかと、不思議に思う。

ニートなのかパラサイトなのか、はたまた・・・ 社会の病(闇)を感じる。

名古屋市の契約社員、磯谷(いそがい)利恵さん(当時31歳)が2007年8月、インターネットの「闇サイト」で知り合った3人組の男に拉致、殺害された事件。

このうちの一人は、ばれなければ悪いことをしてもいいと思っていると聞いた。

安易にお金を得る手段として、人を殺してもかまわないという意識。

この3被告が出会うきっかけとなった「闇サイト」を利用した犯罪は、今回の事件以降も後を絶たないという。

一部の人間であれ、こういうことがこの国で起きていることは事実。

そこには、していいことと、悪いことの判断ができない赤ちゃんの自我しかない。

母親が子どもにしっかり関わって、世話しないかぎり、人の心は育たないのである。

一人一人がこのことを知って、対応しなければこういった事件は今後増え、いずれこの国は残念ながら滅びていくだろうと危惧する。

いつ自分たちの身近な人が、同じように事件に巻き込まれるかもしれないのだ。

闇サイト事件の犠牲となられた磯谷利恵さんのご冥福を心よりお祈りします。

分析家の独り言 197 (真に生きる、生きなおす

あるクライアントの語りである。

分析により自分を見つめ、自分を知ろうとしてきた。

そして「命に代えてあんたを守ってあげる、生かせてあげる」と言ってくれる人を求めてきたことに気付いた。

しかし自分が生きてくるなかで、そんなことを言ってくれる人に出会えなかった。

今でもそんな人に出会いたいが・・・

だからせめて自分の子どもたちには、母親である自分がそういう存在になろう。

そう思える人たちが分析の戸を叩くのだろう。

その時点で意識はしていなくても。

人は物やお金があるからといって、必ずしも幸せになれるとは限らない。

しかし、人はせめてお金を得て安心を得たいと思う。

人が自立していくには、膨大な愛情が必要だった。

母の胸に抱かれ、絶対的な安心と安全の中で守られ、母の乳房を口に含くんだ、そんな幸せなときを充分過ごすこともなかった。

それがないから、自分を守ろうとして、子どもを自分の思うように動かして安心したい。

やたらめったら動き回ったり、真面目に一生懸命、正しく生きる。

それら、不安と恐怖を回避するための生きかたではないか。

その不安と恐怖に捕まる恐怖に、また追い立てられる。

そういう生きかたをして、自分は真に生きたといえるのだろうか。

自分は何が欲しかったのか、何がしたかったのか、どう生きたかったのか?

自然とそういう問いが自分のなかに生まれる。

それを問いかけたときから、自分を生きなおせる。

遅ればせながらもここにたどり着けたことがうれしい、幸せという。

私にも命に代えて私を守ってあげると言ってくれる人はいなかったが、子どもにとってはそういう存在であり続けよう。

子どもが悩んだとき、困ったとき帰ってこられる母港でいよう。

この想いは、分析場面でクライアントにもいかせることがあるだろうと思う。

きっと分析に出会うまでの私は、冷たい孤独な人間だったと思うが、こんなことを思うようになったかと、一人物思う。

分析家の独り言 196 (不登校・ひきこもり:オールOKで母も子も成長)

最近、私どものラカン精神科学研究所のホームページや各サイトを見たと、分析依頼の電話をいただくなかで、不登校・ひきこもり等の子どもさんが「ここの考え方は自分に近い」などと言ったと、その親御さんから言われることがよくある。

おそらく『オールOK!子育て法』や、『ひきこもりに悩む方々へ』のサイトを読まれたのだと思う。

子どもさん達には絶賛されるのだが、オールOKをしてもらう親御さん、特にお母さんには受け入れがたいことなのだろう。

子育て法としてお話をするとき『オールOK』のことを言うと、だいたい「子どもをそんなにあまやかして、わがままさせていいんですか」と言われる。

それでも、他の相談機関やカウンセリングを受けるなかでも、子どもへの対応法としてオールOKと同じ様なことを言われたというお母さん方がおられる。

私はお子さんの状態、日常の様子を聴いて、具体的な場面での対応法を話し、オールOKを徹底してもらう。

そしてそのことがなぜ子どもにとって良いことなのかを、実行するお母さんに納得してもらえるようにする。

不登校やひきこもりに至るまでの子どもさんへの接し方を聴くと、いろんな問題点がみえてくる。

例えば
・ 「ああしなさい」「こうしなさい」「それはいけません」と、命令指示が多い。
・ 親の価値観(良いと思うこと)を子どもに押し付ける。
・ 子どもの話をよく聴かない。
・ 子どもの気持ちを汲まないで、すぐ対策法を言う。
・ 子どもを親のストレス、愚痴のはけ口にしてしまう。
・ 甘やかせてはいけないと厳しく育てた。
・ 失敗を責める。

等など、これでは子ども達は主体性や自己肯定感、自信を持てず、自我が育たない。

自己否定や自信のない脆弱な自我で人と接しようとしても、上手くいかないのは当然。

人から自分がどう見られているかが気になり、それに腐心する。

言いたいことが言えず、自分を出せず、人に合わせているだけにも疲れる

自然と、友達はできにくく、そんな自分にまた落ち込む。

人一倍友達が欲しいと思っているにもかかわらず。(ただしこれは、無意識下に抑圧されていることもある)
 
学校や社会の中で、人と関わらずに生きていくことはまず不可能である。

すると人と関わる場所から撤退する、つまり不登校・ひきこもりとなる。

そこでオールOKして、もう一度育てなおしをする。

そこでまた問題となるのは、オールOKをするお母さんの無意識と養育史である。

頭や理屈でオールOKをすることが子どもの自我を育て、子どもを活き活きさせることになることはわかるが、実践しようとすると、母親自身の育ち方と、それによってつくられた無意識が邪魔をする。

オールOKしたくても、できないのである。

そこで、お母さんの無意識を分析し、なぜできないのかを見ていくことになる。

そこには母親自身の育つ中での傷付きや、親に対する愛と憎しみのアンビバレンツ等がある。

母親自身の無意識を意識化し、子どもへのオールOKをすることにより、子どもとの良好な関係が築かれ、子どもと共に母もまた人として成長する。

分析家の独り言 195 (母の存在)

荒れる子どもに対応したあるクライアントが言う。

子どもの持っている可能性が開花することは、自分が開花することと同じくらいうれしいと。

人はあたたかい環境の中でしか開花できないことを知った。

そう、それが親ことに母親がするオールOKという環境。

子どもは傷付き、歪んだ自分をこの中で癒し、快復し、元気になっていく。

このクライアントの息子は、あるトラブルを抱えヘトヘトになっていた。

荒れていた頃なら、相手に自分の言い分が通らないとキレて暴れていただろうが、息子がじっと耐えて冷静に対処している。

世の中、話の通じる人ばかりではない。

しかしもう、相手を殴って解決はしない。

詰まりきって、母であるクライアントにこれこれこうでとしんどい心情を話し、どうしたいいと思うと聞いてきた。

息子は自分で、「俺も大人になったわ。自分でもようキレンようになったと思う」と言ったという。

思わずうなづく、本当に大人になったなぁと・・・

クライアントは自分の経験から、こういう場合はまず弁護士に相談してみてはどうかと息子にアドバイスした。

早速息子は次の日、弁護士のところへ行ったらしい。

その帰りに電話をしてきて、「行ってよかった。すっきりした」と明るい声で報告があった。

人は泣き言や、愚痴、悩みを言える相手がいることがいかに大事であるか。

相手(子ども)の気持ちを汲み取って、共感して、話しを聴き続ける。

そしてクライアントはしみじみ思う、自分にはこんな風に自分を受け取ってくれる人(母)が居なかったなぁと。

それでもひねくれないでおこう。

「よく頑張った、よくここまで来たな」と自分を励まし、自分をなぐさめる、もう一人の自分が言う。

自分で自分を受け取るしかない。

どんなに悲しい自分も、みじめな自分も、嫌な自分も、それも自分と認めて、そんな自分とも手を携えて生きていきましょう、と私は言った。

マイナスの自分を自分が見捨ててしまったら、誰がその自分をすくい上げてくれるのか。

それをするのは自分しかない。

もう亡くなってしまった母や、年老いた母にそれを望んでも叶えられない。

しかしまだ、母親としてそれが自分にできるなら、子どもにしてやれば子どもはより楽に越えて行ける。

そのためにやはりオールOKである。

母の存在の大きさを思う、と同時に自分と向き合うことの大変さと大事さを思う。

分析家の独り言 194 (ひきこもり:ある症例)

去年の夏過ぎくらいに、当研究所のホームページ等を見たといって電話が入り、分析を始めた。

ひきこもりの10代後半の子どもさんのお母さんだった。

詳しい内容については書けないが、お母さんが来られたので子どもへのオールOKの対応法をお話し、実行してもらった。

母親は「できれば子どもに分析を受けてもらいたが、子どもは嫌がる」ということなので、「無理強いはしないでください。お母さんがしっかり対応されれば、それだけでも子どもは変わっていきますから」と私は言った。

子どもの様子を聞きながら、なぜオールOKをするのか、具体的に日常の中での対応を話していった。

お父さんも一緒に両親そろって来られたこともあった。

父親にも、今の子どもの心の状態を説明し、協力してもらえるようにした。

家庭環境に問題があり、可能であるか確認したところ、できるということなのでそれを実行してもらった。

すると間もなく、子どもは知り合いの会社の面接行くと言い出し働き出した。

この間初給料をもらい、そのお金で家族=両親と兄弟(一人)にそれぞれプレゼントを買ってくれたという。

一人で買い物には行かなかった子が、あれこれ考えながら店を回り、プレゼントのラッピングまでしてもらって。

両親は驚いておられた。

こういう報告を聞けると、分析家冥利に尽きる。

お母さんが子どもへのオールOKを頑張られたことと、父親の協力があったこと、環境を変えたことが良かったのだと思う。

分析と分析の間に、母親が不安になったのか電話が入ることもあったが、よくやられたと感心した。

全てのケースが順調に進むとは限らないが、やる限り良い結果は出て行く。

分析家の独り言 193 (毎日新聞ニュース ひきこもり)

ネットの毎日新聞ニュースで以下のような記事があった。

記者の目:引きこもり問題と、派遣切り社会は連関=市川明代(東京社会部)
◇「善意と鍛錬」だけでは限界 雇用・企業理念、見つめ直せ
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20090220ddm004070156000c.html?inb=yt

以下記事より一部抜粋

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引きこもりは民間推計で100万人規模。最近は長期化や高年齢化が問題になっている。
神経症や精神疾患を伴うこともあり、将来を悲観した自殺や心中も後を絶たない。

社会との接点を持とうと苦悩する男性や、引きこもりの長男を支える父親の思いを描いた。
ある母親は「33歳の長男は同じ屋根の下で全く会話がなく、夜半に食べるものがないと暴れています。
夫も病気で、少しの蓄えがなくなれば……」と悲痛な声をファクスで寄せた。
父の年金に生計を頼る東京都内の女性(35)は「父が死んだらどうすればよいのでしょう」とはがきに記した。

いったん引きこもるとなかなか社会に戻れないという構図は共通している。
大学を休学した後に中退し、一時家から出られなくなった千葉県の男性(36)は「レールを外れた時点で僕の人生は終わったと思った」と打ち明けた。
埼玉県の男性(36)は「35歳を境に就職も結婚もあきらめた」と言った。
あまりにも早い見切りに思えるが、この男性には社会の壁が、それほど高く見えるということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のところでも、いくつかの不登校、ひきこもりのクライアントのケースがある。

下は小学生から、30歳代の成人までおられる。

守秘義務があるため、個々について詳しいことは書けないが、神経症や精神疾患を伴う方が多い。

精神科で統合失調症の疑いと言われた人や、人格障害、対人恐怖症などなど、医者の薬を飲みながら分析を受けている。

この中で私が感じるのは、ひきこもり本人と親の関係である。

ひきこもり本人は分析に来ないで母親が分析を受け、ひきこもる子どもへの対応(オールOK)をしながら、母親が自分を見つめていくことで、ひきこもる子どもが変わっていくケースもある。

また、ひきこもり本人が分析を受け自分を見つめ、プラス親ことに母親の協力があるほど、子どもの快復は良い。

ひきこもる子どもとその母親の両者が分析を受けるケース。

これは子どもは子どもで自分を見つめ、お母さんには日々の子どもへの対応法をアドバイスしながら、お母さん自身の養育史や自分自身等を振り返りながら、よりオールOKをスムーズにしてもらえるようにする。
 
ひきこもる子どもは分析を受け、母親が分析理論を学ぶとか、子育て教室に参加するケース。

こうすることで、お母さんに子どもへの理解を深めてもらう。
 
中には、お金は出すが、ほとんど子どもへの関心を示さない親御さんもおられる。

この場合は、分析者がひきこもるクライアントの母親代わりをすることになる、当然時間がかかる。

母親の協力が得られ、家庭においてひきこもる子どもにオールOKをしてもらえれば、それにこしたことはない。

分析と分析の間に何度もメールや電話入ることも度々。

子どもから「死にたい」とか、泣きながら電話をかけてくることもある。

また対応するお母さんから、「これでいいんでしょうか」と迷いや疑問をなげかけられる。

それらにも、できるだけ応える。

しかし、あまり依存させすぎてもいけないし、かといって全く信頼されないようでもいけない。

個々のクライアントの自我状態、発達の過程によっても違う。

分析家がクライアントに振り回されることもある。

そんなことをしながらも、分析を通して自我を育て主体性を育てていく。

記事にあるように、ひきこもりの長期化や高年齢化が問題となっている。

もちろん取り組むなら早い方がよいが、自分の人生をあきらめないで欲しい。

それから、今小学校や中学、高校で不登校をしている子どもの親御さん、しっかり対応すれば必ず子どもは元気になるので、その対応法オールOKをしてください。

学校や社会参入の話は今置いておいて、子どもの心に寄り添いましょう。

子どもの立場に立って、配慮と思いやり、適切な関心を向けること。

そうすれば必ず子どもは生き返り、元気になって出ていく。

ただ、このことが親御さんになかなか理解されず、実行されないことが残念でならない。


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分析家の独り言 191 (「無期懲役」うつろな星島被告、遺族は失望あらわ)

YAHOO!ニュース 「無期懲役」うつろな星島被告、遺族は失望あらわ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090218-00000034-yom-soci (記事より一部抜粋)

 「犯行は極めて卑劣で、戦慄(せんりつ)すら覚える」--。同じマンションに住む東城瑠理香さん(当時23歳)を拉致し、殺害後は遺体を細かく切断して捨てた元派遣社員・星島貴徳被告(34)。東京地裁で18日に開かれた判決公判で、平出喜一裁判長は、東城さんを自分の思い通りにできる「奴隷」にしようとしたという独善的な犯行を厳しく非難しながら、死刑は選択しなかった。

 「無期懲役」の宣告に星島被告はうつろなままで、死刑を訴えていた母親は、失望をあらわにして思わず顔を背けた。

主文言い渡しの後、約1時間にわたった判決理由の朗読では、犯行の卑劣さを指弾する言葉が並んだ。
「身勝手な保身のみを求め、被害者を物のように扱った」「性的欲望の充足を求めた自己中心的な犯行で、酌量の余地は皆無だ」

一方、遺影を胸に抱いた東城さんの母親は、判決が殺害の具体的な場面に差し掛かると下を向き、耐えるように聞き入った。その後、平出裁判長が「死体損壊・遺棄を過大に評価することはできない」と死刑を回避した理由を述べると、最前列に座った他の遺族らはうなだれたり、顔を手で覆ったりした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この事件をニュースで聞いたとき、なんという残酷な事件がまたおきたのかと思った。

そのなかでも、星島被告が東城さんを自分の思い通りにできる「奴隷」にしようとしたというくだりに驚いた。

強姦し快楽を与えれば、女性を自らの思い通りになる性奴隷にできると思っていた星島被告。

星島被告は幼少期、足に負った大やけどの跡にコンプレックスを感じ、女性との交際をあきらめていたという。

女性と実際に交際した経験がなかったが、女性と交際したり性交したりすることを望んでおり
そのための手段として女性を拉致して強姦し続けることで性の快楽の虜(とりこ)にし、自分の言うことを聞く「性奴隷」にしようと考えた。

人間としての心の成長・発達が歪んでいる。

性による快楽を一方的に与えることで、愛情関係にない女性を自分の思い通りにできると思った、いやしたかったのだろう。

そこに相手(対象)が存在しない、まるで星島被告の一人がてんの世界、思い込みもはなはだしい。

しかし、それくらい自分を愛し、奴隷のごとく自分の言うことを聞いてくれる人が欲しかった。

それは子ども時代でいえば、母の役目である。

子どもに関心と愛情を注ぎ、オールOKをして、何でも言うことを聞く母、それういう体験を育ってくる中で星島被告はできなかったのだろう。

それは彼に限った事ではなく、残念ながら世の中の多くの人たちも経験してはいないだろう。

しかし、その割合や様々な負の要素が重なると、今回の事件が起こりうるということである。

互いが心を通わせる、思いやりなどの互交流の学習も彼にはない。

これもまた、子ども時代に母や父、家族、周りの人たちと関わりながら経験を積み重ねていくことである。

1歳11カ月の時に熱湯の入った浴槽に落ちて両足に大きなやけどを負った。やけどのあとが残ったことで、小学生のころから継続的にいじめに遭った。
しかし、両親に相談に乗ってもらえなかったと感じ、やけどを負ったのは両親のせいだと恨みを募らせ、やがて殺害したいと思うまでに両親を憎むようになっていった、という。

本当に彼が愛と憎しみを向ける対象は親であったはず。

それが向けられないと、その対象を置き換えた他者が犠牲となることは多々ある。

犯罪者の中ではこれは意識されず、無意識におこなわれる。

だからこそ、自分(無意識)を知ることである。

そうすれば、犯罪や事件は防げる。

分析に来られる方の中に、「うちの家でも、世間で起きているような事件がいつ起こってもおかしくない」といわれる。

この事件の犠牲者となってしまわれた東城瑠理香さんのご冥福を心よりお祈りします。

分析家の独り言 190 (性格、血液型、占い)

Yahoo!ニュ-スで、『日本の「血液型性格診断」ブーム、米国でも強い関心を集める』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090209-00000000-sh_mon-bus_all という記事を見つけた。

(以下、掲載文の抜粋)

記事は「日本では、人は血液型によって決まる」と題したもので、・・・日本では雑談などで「あなたは何型? 」などと血液型の話がよく話題になる事実を伝えている。

・・・科学的に証明されていないのにもかかわらず、血液型を重要視する考えが国民の間で広く浸透していると紹介している。

血液型と気質の関連を科学的な研究対象にしようとする試みは国内で1900年代前半に当時の医師らによって行われていたが、結果的に科学的に差異が認められなかった経緯がある。

しかし血液型関連の書籍が多数出版され、またテレビなどのマスメディアでもさかんに報道されてきたため信じる人も多く、携帯サイトをはじめ、血液型占いに関連したコンテンツが数多く流通するなど一つの市場を形成している。

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記事にあるように科学的に証明されていないのにもかかわらず、なぜ日本人は血液型による性格診断や占いをしたがるのか。

たった4つの血液型で、性格が振り分けられ、性格が診断できるわけはないと私は思っている。

性格とは遺伝と環境の相互作用によって形成されていく。

そのときどきでその割合が違う。

こと血液ということで言えば、遺伝的要素ということになるだろう。

しかし育っていく過程やその環境の要素も大きいのだから、血液型で性格が決まるとは思えない。

例えば不登校・ひきこもりの子どもさんを持つお母さんや周りの人会話で、「うちの子は、気が弱くて言いたいことがいえない性格みたい」とか、「人に気を使う性格で」というのを聞く。

しかも「性格は変えられないから・・・」と言う。

言いたいことが言えない性格、人に気を使う性格、これは生まれながらに持っていたものというより、育ってくる過程で培われたもの。

これらは子どもが若ければ、親の対応次第でいくらでも変えられる。

ところが、「性格は変えられる」と言うと、驚かれることが多い。

「性格は変らないでしょう」と。

生まれながらに気を使う赤ちゃんはいない。

攻撃性の塊で、親を殴りながら生まれてくる赤ちゃんもいない。

それら、親や周りの人の顔色を見て自分は出さず、人に合わせる環境の中で育ってきたり、自分の言うことが聞き入れらず、怒られたり攻撃性を向けられることがあっただろうと推測される。

また、「自分も親も無口な性格で、これは生まれながらのもので仕方ない」と言う人もいる。

これも、個人差はあるものの、自分が言うことを受け取り受け入れる相手(親)がいれば、極端に無口にはならない。

性格を表すこ言葉として、我がまま、自分勝手、明るい、暗い、几帳面、大雑把、おおらか、神経質、マイペース・・・などなど様々ある。

自分に自信を持てば明るくもなるだろうし、言いたいことも言えるようになる。

大人であっても人は性格を変えられる。

そのためには自分を知ること。

そして生きながら、死んで(=自分を否定して)生まれ変わる、これを積み重ねていくこと。

これを人としての成長・発展という。

分析家の独り言 189 (幸せを感じるとき:非行の息子に対応して

(以下の文章は、クライアントの了解を得て掲載しています)

荒れた息子にオールOKをして、見事息子は立ち直り、立派に社会生活を営むようになった。

昔の悪の先輩の経験談を聞いて、両親に話しながら涙を流して笑い転げる息子。

それを聞いて同じように笑うクライアント。

ああ、よかったなと思うと言う。

非行から脱出する過程で、悪い仲間と関係を絶ち、1年間家にひきこもった。

コンビにやレンタルビデオを借りに行く以外はほとんど外に出ず、自室にこもり、急に降りてきては、母親であるクライアントに話をしてまた部屋に戻っていく。

そのつど、クライアントは家事の手を止めて、息子の話に聞き入った。

人に自分の想いをしゃべれる、受け取ってもらえる事がいかに大事かを知った。

息子が仕事を始めようと思うと言い出したとき、クライアントは「男は仕事を始めたら、一生働き続けることになるから、焦らなくていい。ゆっくり考えて」と言った。

それでも息子は、自ら「働く」と言って、働き出した。

今、オールOKをしたことが、クライアントの自信になると言う。

あちこちに攻撃性を向けて叩きまくっていた子が、笑い転げて話す、そんな息子を見ることができる。

活き活きとした子どもの姿を見られることに幸せを感じる。

物金に走る人もいる。

お金も無ければ暮らしてはいけない。

しかし、必要以上に物金に執着することが無くなり、これまで苦手としてきた人への興味が出てきた。

私はクライアントと、人は人を自分を知らずして生きる意味があるのか、と話しあった。


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分析家の独り言 188 (自己決定能力を持つ)

人は自分で選択し、物事を決めていかなければならない。

不登校・ひきこもりの状態であった子が、何らかの動き・変化を起こす。

親はそれを見守り、時に子どもからの依頼があれば経済的精神的援助をする。

そして例え動いた結果、上手いかなくても、途中で頓挫しても決して責めないことである。

次どうするかをまた考えれば良い。

思えば、人生は選択の連続であろう。

自分の人生上の選択・決定を一時停止しているのがひきこもりの人達とも言える。

何かを選択することは、それ以外の選択肢・可能性を捨てることでもある。

この選択が正しかったのか、それはやってみないとわからないところがある。

だからこそ人は、自分を信じ勇気を持って、選択し実行していく。

しかし、この選択事態を他者にゆだねてしまったら、そうせざるを得ないかったらどうだろう。

中には親に自分の生きる道のレールを引かれ、その上を歩まされる人もいる。

親はそれが子どものためと信じ、親の思う安全と確実さを子どもに押し付ける。

しかしそれで子どもは幸せだろうか。

生きがいや、やりがいを感じて、これが自分の生きた軌跡だと胸を張っていえるだろうか。

自分をしっかり持ち、自分の人生は自分で決めて歩く。

自分で決めたことなら、自分で責任も取れる。

人(親)に決められた道を歩かせられれば、後にそのことに気付き、子どもは無力感や、虚しさ、怒りさえ感じるだろう。

そして、上手くいかなかったとき、それを人のせいにして自分で責任を取らない。

それは未熟な子どもの自我である。

分析が目指すものの一つは、自己決定能力を持つことである。

分析家の独り言 187 (クライアントとの出会い)

今年に入り、ホームページのカウント数の上がり方が増し、それに伴うように分析依頼や講座、子育て相談室への参加が増えている。

仕事は忙しくなり、最近はまめにブログ(宣照真理のセラピー日記)を書くことがままならない状態になってきた。

しかし私としてはなんとか時間をつくり、皆さんが興味・関心を持てるもの、役立つものなどの情報発信をこれからもしていきたい。

分析依頼等で連絡をいただく方々は、HPやブログ、各サイトを読んでおられ、ある程度分析を理解してもらえているのでこちらとしても大変助かる。

わが師は言う、「出会いこそ人生の全て!」と。

様々なクライアントとの出会いが、また私に新たな気づきや成長をもたらせ、勉強させてくれる。

不安や自信のなさを抱え、現実の症状に悩むクライアントもいる。

早く楽にしてあげたいとこちらが焦ると、逆にクライアントの心の構造をみえなくしてしまう、自分をメシア(救済者)かのように思ってしまう。

常に観察者の目を忘れず、クライアントの語りを聴きながら、心の構造を理論をもとに見ていく、理解と共感を持って。

分析において初回面談で語り、分析者に「理解されたと感じられる」とクライアントに言われることがある。

このクライアントの想いが、分析者との信頼につながっていき、分析治療は進む。

分析家の独り言 186 (不登校・ひきこもり、子育て相談室)

京都府主催の青少年すこやかフォーラムに、ひきこもり民間支援団体として参加してきた。

京都府ひきこもり相談支援センター相談員の曽我氏によると、ひきこもりの長期高齢化がみられるという。

ひきこもり相談支援センターに寄せられる相談のうち
 年齢層                  年 数 
    25歳以上 55%            5年以上 40%
    35歳以上 18%            1年未満 25%      
 男女比 8:2

当研究所に不登校・ひきこもりで分析や子育て相談室に来られる方は、幼児~大学生と、20歳代、30歳代、40歳代の方がおられる。

年齢が若いほど、親の対応次第で子どもの状態に早く変化が現れる。

ひきこもりが長期にわたり、しかも高年齢化するということは、それを支える親御さんの年齢がもっと高くなり対応することが難しくなる。

もちろん、本人を分析することで自我を育て社会に出るようになるが、時間がかかることが多い。

そういう意味では、初期の対応が大事となる。

昨日のフォーラムの最後、ひきこもり民間支援団体合同説明会で、ネットで私のラカン精神科学研究所のHPを見たと言って来られた方がいた。

子どもさんがネットで見て、「自分の考えに近い」と言われたと。

次回2月6日の子育て相談室に参加したいということだった。

家族の理解と適切な対応があれば、子どもがいくつであってもしっかりした自我を持てる⇒社会に出て行く。

また、家族の理解と協力が得られない場合は、本人が自力で分析により、分析者とともに自我を育てて行くことになる。

学校へ行けばいい、社会へ出て仕事ができれがいいという、うわべの現象のみにとらわれず、ひきこもりの根本を知り真に人として社会の中で堂々と生きていかれることを願う。

毎月子育て相談室を開いています。

そこで、不登校やひきこもりの子どもさんへの対応法をQ&A方式で理論的に説明したり、症例をあげたりしながらアドバイスしています。
(不登校・ひきこもり限らず、非行その他、子育てに関すること全てに対応します)

どう接していいかわからない方、悩んでおられる方、参加お待ちしています

℡ 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯℡ 090-7357-4540

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策


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http://mama.lacan-msl.com/ オールOK!子育て法のページもご覧ください

http://indoor.lacan-msl.com/不登校・ひきこもりに悩む方々へのページ

http://lacan-msl.com/fukuoka/ラカン精神科学研究所 福岡支所のページもご覧ください

分析家の独り言 185 (理論を知る、自分を知る)

あるクライアントが言う。

自分は仕事をし、税金も払い、立派に正しく生きていると思っていた。

しかし、子どもは問題を表した。

オールOKをし子どもがまともになって、分析理論を知りだすと、「自分はおかしかったのか」と思ったと言う。

自分は間違っていない、正しいと思っている限り、自分を振り返ったり、自己反省はない。

分析理論により、人間の発達とは本来どういう過程をたどるのか、心の構造はどのようになっているのかなどを知っていくと、自分のゆがみや、間違いを知ることになる。

「えっ、そうだったの」、「そんなの(例えば母による母性的世話)自分にはない」、「子どもにもしてきてないけど、自分もされてない」、「そしたら私は欠けてるってこと?」、などなど嫌でも考えさせられる。

「それを知ることは恐いが、それを知っていきたいとも思う」とクライアントは言う。

私もまず自分が分析を受け、分析理論を学んだ。

知らなかったことばかりで、これは生きていく上でも知らなければと思った。

クライアントのなかには、「理論を聞いて目からうろこが落ちた」と表現する人もいる。

まさにそんな感じがした。

だから、月2回インテグレーター養成講座を受けるために、新幹線で埼玉県の我が師のもとに3年間通えたのだろう。

そして今、同じようにインテグレーター(分析家)を目指す人や、分析理論を学びたいという人たちに、理論を伝えている。

いつも思う、この分析理論やオールOK!子育て法が、世間の常識当たり前のこととなって欲しい。

数学や英語もいいが、分析でいう発達論くらいは学校の授業に入れてもらいたいと切に願う。


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分析家の独り言 184 (症状・生きにくさを薬に頼らない)

携帯サイトを見たと、福岡出張前に電話をもらった。

精神科を探しているということだったが、精神分析という治療法を簡単に説明した。

丁度、何日か後に福岡に出張することを伝えた。

出張の前の日にまた電話が入り、時間が合えば福岡で分析を受けたいという依頼だった。

時間・場所・料金を告げ、了解され、福岡で実際にお会いした。

ある症状と共に、人間関係等生きにくさを感じ、これを何とかしたいということだった。

同じような症状の知人がいて、精神科の薬を飲んでいるが、薬には頼りたくないと言われた。

私も多くの心の病が薬で治るとは思わない。

生きにくさや、神経症やうつなど、様々な心の病・悩みは、心の構造を明らかにして、無意識にせまり、根本的にみていくこと。

このクライアントは、自己分析し、おそらくこのあたりに原因があるのだろうと考え、手順よく養育史を語ってくれた。

これだけの養育史があれば、この症状や生き辛さは当然と思い、よくこの程度でいられ、現在社会適応していると感心した。

人に自分の過去を話したこともあるが、一般の人には受けいれらなかったと言う。

それは無理もない。

過ぎ去った昔のことを話したところで、「それがどうしたの」と言われるのがおちであろう。

その過去の話に耳を傾け、そのことに意味を見出し、それを語ることが大事などと言うのは、分析家以外にはない。

まだ日本の社会では、精神分析というものの認知度が低く、このクライアントのように悩みや、心の病を抱えながら、それをどこで、どうすれば治せるのかを知らないわかない人が多い。

クライアントの話を聞き、クライアントが生きやすくなるために、分析家(インテグレーター)はこれから社会的に要請されると考える。

今回のクライアントも、このままではいたくない、何とか症状も生き辛さも無くしたいと言い、分析に取り組むと言った。

生き辛さを解消し、クライアントの笑顔と幸せをともに味わいたい。


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分析家の独り言 182 (私の生きる意味)

昨年末より、自分のなかで問いかけていたことがある。

自分の生きる意味である。

なんのために自分は生まれてきて、なんのために生きるのか。

自分の人生は生きるに値するのか。

この答えは、どこにもない、自分で意味づけるのみである。

私はこう意味づけた、「本当のこと、真理を知るために生まれ、生きていく」と。

そこに自分の存在意味を見出した。

分析家仲間の「分析をするために生まれてきた」という言葉を聞いて、自分のなかでくすぶっていたものが回り出した、「じゃあ、自分は何のために・・・?」

親は大人は、子どもである私に、ああだ、こうだといろんなことを語った。

親は自分が正しいと思うことを、子どもである私に押し付け、言うこと聞かなければ見捨てるぞと言った。

子どもながらに、それは違うだろうと思うことがあっても、親の言うことを聞かなければ、あの家には居られなった。

そうして嫌でも聞くしかなったことが、未だに私に影響を及ぼしていることがある。

そのことの一つ一つを検証しなおして、そのことの真否を、答えを出していく。

人は完璧ではない、間違うこともある。

代々受け継がれた間違いを、私の代で見直し訂正していき、本当のことは何か、真理は何かを求め続ける。

その基本となるものが分析理論、フロイトやラカンの説いた精神の構造であろう。

分析は生きることそのものだから。

自分で物事を考え、しかし人の意見も聞いて、最終的には自分で物事の善し悪しを判断できる、行動できる心の構造を私より後の子どもたちに残していきたい。

分析を続けてこられたのは、悪しき伝統は私の代で清算し、少しでも良いものを子どもたちに残したい、自分のような人間はもうつくりたくないという想いであった。

そのために、分析を通して自分を見つめ続け、自分を否定し殺し、生まれ変わる作業を積み重ねてきた。

それが今、私の生きる意味として結論づけられた。

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http://tokyo-mtl.com/analysis/"月刊精神分析 もご覧ください

京都、福岡、大阪へ毎月出張しております。

分析家の独り言 181 (年頭にあたり思う)

昨年末から久しぶりに風邪をひき、寝込むまでにはならなかったが、のどの痛みや咳に悩まされた。

クライアントは真剣に自分に向き合う覚悟で分析に来るのだから、仕事に穴は空けられない。

私の代わりをする人もいない。

この仕事を始めてからは特に、自分の体には気を使い、風邪などひかぬよう気をつけてきたのだが。

何を身体化したのかと考えた。

思い当たることがある。

それは、これからもう少し自分のなかで咀嚼し、しっかり意識化し行動化していく。

我が師は、分析家も生身の人間、全く身体化しないのもおかしいという。

確かに、身体化という身体の反応によって、また自分を振り返り考える機会となる。

それもまた良し。 

自分との戦いになりそうだ。

それによって、また一つ階段を上がることになるだろう。

そんなことを考えながら2009年の正月を迎えた。

http://lacan-msl.com/contents.htmlラカン精神科学研究所のホームページ

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