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2010年4月29日 (木)

金谷氏今月のメッセージ (平成22年4月)

〔テーマ 『吉田松陰』 〕

 私が青春時代に憧れた吉田松陰は、若くして時の徳川幕府を真向から立ち向かい壮絶な生涯をとじた。

その知性と勇気に「男」を見たからです。父のいなかった私は男はどう生きるべきか、どう生きる事が男の人生なのか、と問いかけていた時に松陰の人生を垣間見て憧れていた。今またその壁に打ちあたって再度松陰に出会う事が出来た。

 松陰は元保元(1830年 )萩で下級武士の次男として生まれ9歳で中国の古典を諸んじ、11歳で藩主の前で学問を講義し、長州藩期待の星であった。彼は5歳で伯父の所に養子に出された。
伯父は武士の心得や戦の攻め方や守り方を研究する兵学者であった。

その伯父から英才教育を受けた彼の逸話がある。ある日学問の指南を受けていた時一匹の蚊が松陰の顔を刺したのでそれを手で払ったところ、伯父は烈火のごとく怒った。「学問は藩に役立てる為にやっている事、言わば公の事である。その最中に虫が止まって痒いというのは私事である。藩の為には私事を捨てなければならないのだ」と徹底した教育だった。
  1851年・松陰22歳の時兵学修行の為に江戸に留学したが松陰は江戸の学者に失望する。江戸の学者は、皆学問を生計を立てる手段と考えている人が多く、貫く道として学問を志す人がいない。

松陰は日々、日本各地から集まって来た優秀な若者と議論を交わした。当時はまだペリーの黒船が来る前の時代の事、話題は日本近海に現れる外国船・アメリカロシアの船が東北で目撃されていて、いつか攻めてくるのではと恐れられていた。

 日本の守りは大丈夫なのかと、松陰の兵学者の血が騒ぎ熊本藩士・宮部鼎蔵と共に東北調査の旅を決意し、その調査の旅に出るには「過書」(現代のパスポート)が必要であり、松陰はすぐさま申請しようとした。

が許可に2ヶ月かかると言われ、また、「過書」無しで旅に出れば藩を脱走した犯罪者になる。その上時は12月真冬の東北は大変だから出発延期を諭されたりと、結局のところ許可の無いまま出発してしまう。

待ってたのではが時期を失すると考えた松陰、1851年12月22歳の時で2人は外国船が出没する津軽海峡を目指した。

道中水戸では兵学者に話を聞き、会津では洋式の大砲を見学した。
しかし、難関は越後山脈の諏訪峠を越える事であった。ここは積雪が2mほどにもなる豪雪地帯で、一歩進むのも容易なる事ではない。

登り始めてから5時間峰の頂上を極め、四方を見渡してみるとこの上なき快感を覚え、あごが外れるほど大笑いした。困難であればあるほどその中にある大切な事を知る事が出来るのだと悟った。

 だが松陰はこの後、日本の厳しい現実を見せつけられる事になった。まず、佐渡島にたちより幕府直轄地の金山を見学した。そこで見たものは工夫達の悲惨な姿で、どんな力がある者と言えども10年も働けば体は衰弱し死に至る事、しかしそれでもここはまだましな方で他の山なら3.4年で死ぬと言う過酷さ。

 その次に訪れたのは、優れた軍馬の産地・盛岡藩に立ち寄った。
軍馬の生産農家と話をした所、農民たちが育てた馬が2歳になると藩が安い値段で買いたたいてしまう。利益の多くは官にあって民にはないのであった。国の守りを支える人々が、幕府や藩に追い詰められている現実に松陰は疑問を抱いてしまった。

 1852年3月・津軽海峡に到着、そこで松陰は愕然とする。
海岸に大砲はあるものの弾が遠くまで届かない旧式ばかり、地元の弘前藩は見て見ぬふりをしている。藩の重要な地位にある者がこの事態にぼんやりとして心配すらしていない。

松陰が帰国したが藩は厳しく罪することはなく、まず頭脳明晰な松陰が見聞を広めれば後々藩の役に立つと、逆に自由に旅する許可をあたえた。
 
 その後、松陰は南は九州から東北に至るまで歩き、距離はおよそ1万3000㎞地球の直径とほぼ同じであった。
松陰は又大胆な行為に及んだ。弟子の金子重之助と共にアメリカ密航を決行した。1853年6月24歳の時にペリーのアメリカ艦隊が浦賀に現れた。

1854年1月25歳の時、無謀な挑戦をする。西洋に対抗にはするには自分がアメリカに渡り、技術を学ぶしかないと考え1854年3月・伊豆下田に向かった。

船頭に交渉するが、一度は黒船を目前に逃げ出され、次は約束をすっぽかされ、それでもあきらめず黒船の船員に手紙を渡し、自分たちを迎えに来てくれと頼んだ。が実現せず自らの力で船を操り黒船に乗り込み命がけの申し出であったが、アメリカが密航者を受け入れてしまうと、幕府との交渉に支障が出る恐れがあると判断された為、簡単に断られてしまう。

 しかし、後日ペリー提督はこの日の出来事をこう語っている。
「この事件は二人の日本人の激しい知識欲を示すものとして、じつに興味深かった。この二人の性格を見れば、日本の前途は何と可能性を秘めている事か!何と有望である事か!」と絶賛したのである。

 海外密航を企てた二人は逮捕され、金子は獄中死をしてしまう。
松陰は身分の低いものが志を果たせない国の現状に、疑問を膨れ上がらせていった。
松陰は自宅謹慎を命じられた事により、自宅で「松下村塾」を開いた。自分を「ぼく」弟子を「あなた」と呼び対等な立場で学習していった。そこには90人を超す弟子たちが集まり、戦いの天才・高杉晋作、長州の若きリーダー・久坂玄瑞、後の初代総理大臣・伊藤博文等多勢の偉人が育った。

 しかし、ここで松陰は強烈な幕府批判をはじめる。長州藩の藩主に意見書を認めた「世を惑わし民を偽り仁義をふさいでしまう功利の説が天下に満ち溢れている。将軍は天下の賊である。大義にてらしてこれを討滅誅戮し少しも許してはならない」

この激しい抗議文、当然ながら長州は握り潰してしまった。松陰は諦めることなく尚も「これから幕府の老中を暗殺します。ついては武器弾薬を貸してほしい」藩は松陰を投獄してしまった。それでも諦めず牢屋から弟子たちに手紙を書き、自分の訴えを依頼したが弟子たちは血判状を書いてまで諌めた。「先生のおっしゃることはもっともで感激しましたしかし決起は容易でなく、かえって藩に迷惑がかかります。胸をおさえ過激な批判を止め、藩に害を及ばせぬようお願いいたします。」と返事を出した。

しかし松陰の答えは「私の思いが分らない人と絶交する。僕は忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもりで、自分の功績や手柄を考えてるのではないか!皆が時勢環境と言うが、時勢が来るのを待っていれば日が暮れる。自分たちが時勢を作り環境を整えるのだ。」と主張した。

 安政6(1859年)7月9日幕府役人から直接取り調べを受ける事になったが、松陰はこの期を利用し、幕府が穏便にと処理しようとした行為を無駄にして、老中暗殺を自白し自らの思いを直訴してしまう。

「奉行がもし私の意見に耳を傾けて下さり、天下の大計・現在の急務を弁え1・2の措置をなさって下されば、たとえ私が死んでも光が有ります。」自らが声を上げる事によって、少しでも世の中が変わるかも知れないという命がけの訴えであった。

 これにより安政6(1859年)10月27日30歳に死罪になってしまった。松陰の遺言と言うべき「留魂録」でこう言っている。「私は30歳、四季はすでに備わった、花咲き実は結んでいる。
それがよく熟していないものか、それとも成熟したものなのかは私の知るところではない。もし同士の中で、私の心を継いでくれる人があればそれはまた、種子が絶えずに穀物が年ごとに実って行くのと変わらないことになろう」

 松陰の死後8年目にして幕府は倒れた。松陰の信念は「成功失敗を考える前に、まず行動する事に意味がある」世の中を変えようとする人の考えや行動は、無茶に見える。それは常識や慣例に従って変化を恐れ、事なかれ主義に固執している人の目線であり、それでは何も変わらない。
松陰のようにこの世の中を正しく自分の目で見て、感じ個人や藩だけの為でなく日本国の事を思い、自らの主張を絶対に諦める事無く、訴え続け自分が声を上げ行動することにより、世の中を変えようとする意気込み、相手がどんな人間であろうとも堂々と立ち向かう勇気、命がけで最後まで信念を貫く精神、これが男としての生き方である。

私はこの精神を学び行動して生きて行きたいと思う。

所長  真理攫取


http://www.k5.dion.ne.jp/~kanaya/index.htm 金谷精神療法研究所

http://lacan-msl.com/contents.html ラカン精神科学研究所 のホームページもご覧ください

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